森永純さんの写真集『WAVE』の予約を開始しました。
限定800部です。ご興味ある方は、こちらのホームページでお申し込みください。
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森永純さんは、ユージンスミスが号泣したと言われるドブ川の写真集「河 累影」(邑元社)を出した後、30年以上の長きにわたり、ひたすら波の写真を撮り続けている。
1970年代のはじめ、日本の写真界を牽引していながら、森永純さんは、写真集をこれまでに『河 累影」(邑元社)の一冊しか世に出していない。
「河 累影」は伝説的な写真集となって、今も根強いファンがいるが、森永さんは、写真集を作ることや、写真を発表することを主目的とせず、自分の内的必然性において、ひたすら写真を撮り続ける。誰かに見てもらいたいなどという媚びた欲求は持っていないのだ。
そのストイックなまでの写真がユージンスミスの心を直撃し、男泣きしたと、ユージンスミス自身が後に語っている。
ユージンスミスは、森永さんが撮ったドブ川の写真に、原爆のイメージを見いだしていた。
森永さんは、長崎県出身で、原爆によって、家と父と姉を失っている。長崎に原爆が投下された時、森永さんは、佐賀県に疎開していた。
戦争が終わって、自宅に戻ってきた森永さん。そこには、夏の強い日差しに輝く白い空間だけがあった、悲しみとか怒りといった感情は湧いてこなかった言う。
森永さんの戦後は、その白い空虚から始まった。だから、森永さんは、1960年代のはじめ、ヘドロで悪臭漂う東京のドブ川の写真を狂ったように撮影し続けていた時、原爆のことはまったく考えていなかった。ただひたすら、自分の内的衝動にしたがって、ヘドロの川面すれすれのところまで顔を近づけて撮影していた。
そして、森永さんは、そのヘドロの中に、生物が生きていることを発見していた。
森永さんは、自分が撮ったドブ川の写真と、原爆を結びつけられることを嫌う。原爆を意識して撮ったことなんか一度もないからだ。しかし、ユージンスミスは、その写真の中に、原爆の影を見た。森永純さんが長崎出身だということを知らずに、森永さんと原爆の関係を見抜いていた。ドブ川の得体の知れない強烈なイメージが、彼の胸を貫き、泣かざるを得なかったのだ。
そんな森永さんは、東京のドブ川を撮り切った後、ひたすら波の写真を撮り続けてきた。戦後、白い空虚から歩みを始めた森永さんは、戦後の日本社会に次々と建造されていく物質世界が、全て蜃気楼に見えていたのだろうか。そうした世相的なことにまったく関心を持たず、ドブ川を撮り、その後に波を撮り続けて、写真家人生をまっとうしてきた。
森永さんが撮った波の写真は、巷でよく見られる癒し系の波写真とはまったく異なっており、それはまさしく森羅万象の根本的な律動。その律動は、当然ながら、命あるわれわれの中に息づいている生のリズムでもある。
ヘドロだらけのドブ川の中に微細な生物を見いだしていた森永純さんは、波を通して、生と死の本質的な様相を嗅ぎ取っていたのだろうか。生が有で死が無なのではなく、もしかしたら、生死は波の起伏にすぎないかもしれない。
もちろん、そんな分別を持って撮影していたわけではないだろうが、森永さんは、船に乗って波を見つめ続けている時、意識が溶け消え、恍惚とした境地のまま、何度も波の中に身を投じてしまいそうになって、とても危険だったと述懐していた。
私が、風の旅人の第35号の特集で、森永さんの波の写真を紹介したいと申し出た時、森永さんは、30年も撮り続けていながら、まだ完成していないからと拒んだ。そこをなんとかお願いして、16ページほど紹介させていただいた。
その時、森永さんのイメージの中では、あと4つほど波の相が必要だということだった。それが撮れるまで、波の仕事は終わらないと言っていた。
波というのは、それなりに絵になるので、波の写真を撮って写真集にしている人はたくさんいる。あまり時間をかけることなく、同じ場所に立って、ザブンザブンと押し寄せてくる波を待って撮っている写真を作品だと言って発表している人もいる。そういう写真集は、すぐに飽きてしまう。人間が波を自分の都合の良いように切り取ったところで、それは波ではなく、波のごときデザインでしかない。
森永さんは、かつてドブ川に取り憑かれていたように、波の複雑精妙さに取り憑かれて、30年以上も撮り続けている。森永さんは、何度見ても、波の中に新しい魅力を発見して飽きることがない。そういう人が撮った波の写真もまた、飽きることのない魅力がある。
その写真は、刻々と変容していく波が見せる瞬間ごとの美しい相ではあるが、撮影によって波の動きを切断したという感じはせず、それ以前の動きと、それ以降の動きをつなぐ絶妙な均衡がとらえられていると感じる。それゆえ、写真という静止空間にもかかわらず、波全体および各部分がうごめき、波そのものの生が持続していることが伝わってくる。波は、それ以前の力を受けて次へと伝えながら絶え間なく変化し続けているが、どの一瞬を切り取っても同じものはない。波の一つ一つは常に新しい形を見せる。しかし、全体として見れば、いつまでも変わらない波ならではの摂理がある。繰り返し繰り返し、これまでも、そしてこれからも、その時ごとの必然性のなかで、なるべくしてなるように全体と部分を整えながら、次なる動きを生みだしている。
波のリズムというのは、間違いなく記憶の深いところに働きかける力がある。そして、波そのものにこれだけ深く自己投入して撮影を続けてきた人は、森永さんを置いて、他にいない。
これは次号で紹介する前川貴行さんの写真。前川さんが撮るような野生の生物の写真に関心を持つ人は多いが、実際にやっている人は限られている。町中の猫とかの写真を撮ることに比べて遥かに大変で、根気もエネルギーもいるからだ。
猫の写真は誰でも撮れる。フェイスブックでも溢れかえっているのではないか。そして、みんな共感する。だってそれは、みんなが日常的に感じとっている世界の範囲内のことだから。そのようにして、自分の世界の範囲内のことに共感して、いいね!と言いながら、どんどん自分の世界は狭いところに閉じられていく。自分の生き方を根本的に疑うようなことにもならない。
前川さんのように野生の中で生物と向き合っていると、自分の生活や生き方に対する疑問が常に脳裏を横切ることになる。次号の特集で前川さんに文章を書いてもらっているが、これがなかなかの名文なのだ。実体験のともなった文章は、やはり説得力がある。
文章表現の世界もまた、プロと素人の境目がどんどんわかりにくくなってきている。読んでもらわなければ意味がない(売れない)ということで、プロに所属する側の人も、素人に媚びた文章を書くようになっているからだ。一日で簡単に読みきれれるような内容の薄い本の方が売れたりするわけだから。
でもそれは、自分にとってわからないものに向かい合いながら、自分を振り返り振り返り進んでいくという進み方ができなくなっていることでもある。そのように、一見遅いように見える進み方の方が、歳月を経てふりかえると確実に前に進んでいる。さっさと通り過ぎるようにして見たり読んだりしたものは、後になってふりかえれば何も残っておらず、けっきょく元の自分の地点から一歩も進んでいないということになる。そうやって、けっきょく、お金も時間も無駄に消費してしまう。急き立てられるように色々やってはいるが、けっきょく何もしていないに等しいということになる。
以前、ここに書いた屋久島の年輪のように、厳しい環境の中で薄い年輪の層を積み重ねていくことが、結果的に、強い生命力になり、悠久の時を超えて生き続けることになる。
この前川さんのリスの写真は、野生の厳しさがオーラのように醸し出されているものではなく、愛らしさに満ちている。
しかしそれは媚びた可愛さではなく、全身全霊で生きている生物だけが備えている緊張感と弛緩の大きな振幅から生じている愛らしいさだ。手を伸ばせば、さっと消えてしまう存在。所有できないからこそ、かけがえがない。檻の中で飼うリスには、その愛らしさとか、ときめきを感じることはできないだろう。
ものの価値、そして生の本質は、おそらくそういうところにあるのだろうと思う。そのことを忘れていると、けっきょく色々な物を手に入れても、満たされることはない。
復刊後の風の旅人は、書店での委託販売を行いません。オンラインか、直接買い取りの書店でのみ販売します。詳細はこちらまで。 →www.kazetabi.jp
この写真は、風の旅人 復刊第一号(www.kazetabi.jp)で紹介した水越武さんの写真。荻窪の六次元で水越武さんと行ったトークを、ホームページにアップしました。ご覧ください。
http://www.kazetabi.jp/対談/
今は、誰でも写真が撮れるし、加工もできる。だからその写真に真実があるのかどうか、写真家自身が、信頼に値する生き方をしているかどうか問われるという水越さんの言葉が胸に残りました。
それは写真に限らず、どんな表現でも言えることかもしれません。これまでは、作品は作者を離れて一人歩きするという言い方をされてきました。確かにそういう側面はあります。作者自身が思ってもみなかったところで、人々が感動するということもありますし。
しかし、それは、作品が作者を離れているのではなく、作者自身が意識していなかっただけのこと。作品には、やはりその作者の人生の全てが凝縮している筈です。
作品を磨きあげていくためには、自分自身を磨きあげていかなければならない。職人の世界ですと、それは当たり前のこと。
昨今流行のアートの分野においては、作品は作品として・・という言い方でごまかされることが多い。でもそれはけっきょく、商業主義や、つまらない虚栄に走っている自分自身を隠す為のカムフラージュだとも言える。
もはや、どんな詭弁を使おうが、インチキ臭いものは腐るほど溢れていて、その違いがわからない人もいることはいるのだけど、(商品のピーアールと同様、巧みな話術で誘導することを商いにする言葉使いがたくさんいることも大きな原因だけど)、もうそろそろ、作り手に対する信頼ということを大事にする時代になってきている。農業など食べ物は、直接的に身体に害を及ぼすので、すでにそうなりつつある。
作品も、直接的に心に影響を与えるものであることは間違いない。
インチキなものを食べれば少しずつ味覚が損なわれ、身体が蝕まれていくように、インチキな作品は、感覚を損ない、心のありようにも影響を与える。
本当においしいものを食べた時の、身体全体で感じられる喜び。作品も本質的には同じだろう。
5月6日 19:00〜荻窪の六次元で、かぜたびナイト第4回を開催します。
お申し込みは、六次元まで。→http://www.6jigen.com/
今回の語り手は、写真家の山下大明さん。屋久島の写真では第一人者だ。
屋久島は、”大自然の宝庫”というイメージでよく語られる。しかし、屋久島は、「一ヶ月で35日は雨」と言われるほど降水量が多く、年間降水量は平地で4000mm、山地では8000~10000mmにもなり、降りしきる雨が土壌から養分を洗い流してしまい、その土地は、決して豊かと言えるものではない。
亜熱帯に位置する島でありながら、2,000m近い山々があるため亜熱帯から亜寒帯に及ぶ多様な植物相が確認されているが、生存環境としては恵まれているとは言えないところで、それぞれがひしめきあって生きているのだ。
杉や檜など単一規格の植樹が日本の森をダメにしたと「混植・密植型植樹」を提唱し活動し、80歳を超えた今でも精力的に植樹指導を行っている宮脇昭さんによると、「植物というのは、本来の生理的な最適域から少しずれて、少し厳しい条件下で、我慢しながら、嫌なやつとも共生しているような状態が、最も健全な状態である」らしい。つまり、アイツの為だと言って、アイツだけに都合のいい過保護な環境をつくってやることは、生物的に不健全であるということ。
屋久島に心奪われ、もうかれこれ20年間住み着いて撮影をし続けているのが、山下大明さん。山下さんは、雨の日しか撮影しないと言っていた。恵みの雨と簡単に言えないほど屋久島の雨は膨大な量になる。それは、過酷な試練でもあるが、生命力を高めてもくれる。本当の意味で恵みというのは、安易な助けではなく、自分を強くしてくれる存在のことを言うのだろう。
山下さんは、屋久島を代表する屋久杉の写真は撮り尽くして、近年では、月光をたよりに照葉樹林の森に入り込み、そこに息づくいのちを撮り続けている。
山下さんは、写真も素晴らしいが、文章も味わい深い。
「生活の中で、使い捨てられていく物ばかりが目につく生活をしていると、目新しい物や便利な物を使い捨てていくことが豊かさなのだと勘違いさせられる。しかし、森の樹のように、葉を茂らせ養分をつくり、自分だけでなく、まわりのものとも生きる生き方が、ほんとうの豊かさをつくり出していくように思える。
私たちは、ほんとうの意味で、そうした地道な行為が、じつは豊かさを育み、深い樹の世界をつくり出しているということに気づいていないのかもしれない。
森から離れてしまった私たちは、もう一度森に目を向け、自分たちの生きる道を教えてもらうべき時を迎えていると思う。」森の中の小さなテント(ほんとうの豊かさ」
次号で紹介する齋藤亮一さんの写真。今回の齋藤さんの写真は、ここ20年くらい撮り続けているもの。それぞれの写真の撮影日は、敢えて記録していない。時代環境に関係なく、子供が子供であることを存分に発揮している写真をセレクトしているからだ。なかには、江戸時代だって、こんな感じだったのではないかと思わされるものもある。
ここ数十年、写真家をはじめ表現者は、”新しさ”をひたすら追求してきた。しかし、近年、”新しいぞ”と示されるもので、新しさを感じるものがあるだろうか。新しさを追いかけているうちに、どんどん表層的な表現になってしまい、肝心の心が動かされない。新しいと言われて見せられても、「ああ、そうなの」という感じで、ときめきがない。
心が動くことや、ときめきを感じないのに、理屈っぽく、新しさの説明を聞かされたところで、何にもならない。それを商売の種にしてきた評論家の類は、自分が見つけてきたものがいかに新しいかを説明する。
けっきょくそういうものは、人間付き合いにしても、自分としてはピンときていないのに、アイツと付き合ったらきっと何らかのメリットがあるよと言われたり、この資格をとっておけば、きっと何かで役に立つよと言われているのと同じようなものだ。一通りそういうことは経験してきて、もういいかげん、評論家やマスメディアや、その道の権威と言われる人が発信する基準ではなく、自分の尺度をしっかりと持った方がベターであると覚ってもいい頃。
20世紀は、評論家の時代だったかもしれない。
21世紀は、一人ひとりが、もっと自分の心の声に素直に耳を傾ける時代だと思う。
復刊2号、オンラインで販売を始めました。
この写真は、風の旅人の46号で紹介する北義昭さんの写真。イランの子供。ペルシャのペルセポリス遺跡と一緒に紹介する。今回、北さんの写真を構成するのは楽しかった。インカ、マヤ、アンコールワット、古代ペルシャ、古代インド、アジアモンスーン、アフリカ、中南米など、それぞれの地域の古代遺跡や自然風景と子供を組み合わせて構成した。
世界中の子供達の気高い表情を見て欲しい。北さんが撮る子供は、笑顔を振る舞っているカットは一枚もない。どの子供も静かな表情なのだけど、子供が子供として、気高く生きているという感じが伝わってくる。
発展途上国とか先進国とか、大人世界の分別なんかどうでもいい。
国境に関係なく、子供には子供の世界がある。子供は、自分が見ている世界から、いろいろなことを触発され、そのたびに、自分を生まれ変わらせていく。その柔軟性と精一杯が、子供の特権だ。
大人は、そうした子供の振る舞いを見て、知らず知らず自分の中から失われている大事なものに気づかされることがある。
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この写真は、風の旅人の第46号で紹介する関野吉晴さんの写真。アマゾンに暮らすマチゲンガ族の子供。マチゲンガの子供は8歳になると、自分の炉を持つのだそうだ。今回の関野さんのマチゲンガの子供についてのルポはとても面白いし、感心させられる。大人が子供に具体的には何も教えないけれど、子供は、必死に大人のやることを見て、学習していくということ。とくに狩りの仕方などは、一種の神業みたいなものだから、マニュアルで通用する筈がなく、自分自身の全身全霊を研ぎすませて、失敗を繰り返しながら、コツを体得していくしかない。子供にとって本当の意味で先生にあたるのは、大自然だ。
食事をとる時も、日本のように、大人は子供に対して、好き嫌いはダメよ、などとは言わない。子供は、自分から食べ物に手を伸ばさないと、食べ損ねてしまう。そして、十分な量にありつけなくて空腹が耐えられないと、ジャングルに入って、自分で小動物を捕まえてくるしかないという。逞しくなければ生きていけないということが前提になっているのだ。
もちろん、こうしたことをそのまま日本に当てはめることはできない。しかし、誰かがお膳立てしてくれる環境よりも、自分で何とかやっていくしかないという覚悟を持たざるを得ない環境の方が、生命が生き生きと輝くということは伝わってくる。
誰かがやってくれるという依存状態は、楽なように見えて、実際は、自らの生命を蝕んでいく状態になるということだ。
子供に限らず、高齢者の介護の現場でも同じことが言える。依存状態のまま生きる屍のように生きるのか、敢えて困難を引き受けて生き生きと生きるのか。けっきょく、どちらの人生の方が、自分自身が納得感を持てるのかということに尽きる。人は誰でも、いつか必ず死ぬ。それは日本人もマチゲンガ族も同じ。今回の関野さんのルポは、生きることの原点を振り返るきっかけになるだろうと思う。
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この写真は、次号で紹介する広川泰士さんの写真。富山県の南砺というところ。合掌造り集落があり、衣食住に伝統的な暮らしが息づいている、とっても素晴らしい場所。雪が深くて大変なところだけれど、一つの空間として、存在自体が美しい。
現在の日本は、郊外に画一的なショッピングモールが進出したりしているが、利便性を優先した空間で、美しいと感じられるところはあまりない。なぜなんだろう。
この100年ですっかり失われてしまったことは、生活それ自体の美しさ。使い込んだものの美しさ。ファッショナブルな物は増えたかもしれないけれど、心底、美しいと感じるものはあまりない。だから、すぐに飽きてしまう。流行のファッションで飾り立てた女の子達が、「可愛いー」とか言いながら、ダラダラ歩いている光景は、まったく美しくない。美しさは、姿勢や動作や、ちょっとした表情に凝縮しているものだけど、飾り立てるほど、それらが醜くなっている。
広川さんは、日本の桃源郷のようなところと、破壊の著しい現場を撮影している。今この瞬間の日本に、その二つが同居している。日本は、その二つに引き裂かれた状況の中から、次の時代をどのように作っていくべきか真剣に考えなければならない時にきている。愛国とか、道徳教育とか、言葉のうえで、日本の伝統を大事にすべきだと声高に唱える人が増えてきているが、しっかりと見定めなければならないのは、言葉そのものはどうでもよく、言っていることや行っていることが、しみじみと、心に染み込むように美しいと感じられるかどうかだ。
美しくない表情と動作と、言葉の使い方で、「日本の伝統」とかを大声でがなり立てるものは、胡散臭さが漂う。本当の意味で、日本が世界に誇る文化というものがあるとすれば、それは、大きな声でアピールする必要なんてまったくなく、その存在自体が、今の粗雑な自分の在り方に対して、静かに反省を促すような力がある。その粗雑さというのは、世界や生命に対して、どこか傲慢になり、無神経になり、疎かにしているということ。
世界や生命に対する無神経さというのは、実は、自分自身に対する無神経さともつながっていて、結果的にそれが、自分自身を荒廃させる。いくらたくさんの物に囲まれていても、生活が美しくならず、逆に荒廃していっているように感じてしまうのは、その為だろう。本当の意味で自分を大切にするとはどういうことか。そのことを考えない大人が、子供を大切にしているなどと言えやしない。
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この写真は、小説家の丸山健二さんが、自宅の庭の写真を撮ったもの。このたび、次号のロングインタビューのため、信濃大町の丸山さんの自宅に行った。丸山さんは、20年近く、小説を書くのと同じ情熱を庭作りに注ぎ込んでいて、素晴らしい庭をつくりあげている。その花々は、今では貴重な野生の薔薇をはじめ、野生種と園芸種なのだが、その調和が素晴らしい。薔薇は病気にかかりやすいとか虫がつきやすいと思われているが、それは人間が品種改良をし続けて薔薇であり、野生の薔薇は、そうではない。松もそうだけど、松食い虫に簡単にやられてしまうのは、人間が海岸線などに植林した松で、もともとの松は、峻険な山々の崖っぷちなど厳しい環境で生きていた。それらの野生の松は強い生命力があり、松食い虫にやられにくい。
薔薇も松も人間もそうだけれど、過保護の状態で、生命力を低下させ、病気にかかりやすく、虫もつきやすくなっているだけのこと。
ならば野生の薔薇は、放っておいても簡単に育てることができるのではないかと丸山さんに問うと、それは野生環境の中での話で、庭というのは既に人工的環境になってしまっているので、その中で野生状態のように放ったらかしにしていたら、育たないそうだ。
人工的な環境で、品種改良をした薔薇を育てるためには様々なマニュアルがあるが、野生の薔薇を育てるマニュアルはない。人間もまた、人工的環境の中で品種改良されたような官僚的人間を作るマニュアルはあるが、人工的な環境の中で野生状態を保ちながら健やかに育てることは簡単ではない。しかし、今もっとも大事なことは、そういうことだと思う。なぜなら、本来の生命力は野生に根ざしたものであり、その野生の感覚を取り戻さないかぎり、生命の歓びもわからないから。
人工的環境の中で、いかに野生の感覚を取り戻していくか。それこそが、私達にとって、株価やデフレ対策より重要な課題だと思う。子供達の未来のことを考えると、なおさらだ。株価があがったり、物価があがったところで、けっきょく官僚的な壁の中でストレスをためて、時々憂さばらしをするだけで、生きる歓びとか手応えをまったく感じられない人生を通過して、我々は何のために生きているのかという問題は、ずっと棚上げになるだけなのだから。
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この写真は、風の旅人 第46号 コドモノクニで紹介する前川貴行さんの写真。前川さんは、世界中の様々な地域で動物写真を撮っているが、今回の特集では、日本の森の中に生きる動物に焦点をあてて紹介します。日本の野生動物は、日本の自然の生態系の中に適応して長い間生きてきたのだけど、この100年で、日本の自然は大きく変化してしまった。人間は自分の都合の良いように環境を変えてきたのだけど、それが、自分の子供達(未来)に対してどんな悪影響を与えるか、まったく考えてこなかったと思う。そして、自分に都合の良いように変えた環境は、結果として、自分にとって本当に快適なものになっているのだろうか。仕事のストレス発散なのか得意先の接待なのかしらないが、週末に早起きしてでかける郊外のゴルフ場で行うゴルフは、自然を大規模に破壊して、しかも高額なお金を使うことになるのだが、そんなに人生の歓びを与えてくれるものなのだろうか。家に閉じこもって行う高価なゲームにしても、支出にみあった歓びを与えてくれるものなのだろうか。
環境が損なわれたことで、人生の歓びとか楽しさというものの在り方が歪んでしまい、そのことがさらに環境を歪ませていく悪循環に陥っているように思う。
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この写真は、風の旅人の復刊2号の「コドモノクニ」で紹介するマスノマサヒロさんの写真。福島の子供達
福島の子供達について、私は、語れるような言葉を持たないけれど、この子達が、未来を作っていく一人ひとりになるということは、間違いない。20年後には、社会の一線で働いているわけで、家庭も持っているかもしれない。その時、日本は、超高齢化で二人に一人が65歳以上になるという、若者にとってはとても厳しい社会状況になっている。大げさではなく、老人(私もその一人になっている)の心構え次第で、日本が破滅的な状況になっている可能性だってある。少なくとも、今のように、自分の健康がちょっとでも悪いと朝早くから病院に行列を作っているような老人(全員とは言わないが)が,国民の二人に一人になっていたりすると、財政も何もかも、相当酷いことになっているだろう。
福島の子供達のことにかぎらず、子供達のことを云々と言う前に、これから20年、30年のあいだ、大人の心構えがどうなのかが、厳しく問われることは間違いないだろう。
この福島の子供達の視線の前で、自分が恥ずかしくない大人になっているか、恥ずかしくない老人になっていけるのか、自分自身に真剣に問わなければならないと思う。
これほどガタガタになっているにもかかわらず、日本には技術があるから大丈夫だとか、日本はまだ先進国の優等生であると思っている人が多いが、現在の日本の人口比率が、若者が優勢的であるならば、現在のこの状況でも未来は大いに可能性があるが、そうではなく、ほんの数年のうちに、働かない人ばかりの国になってしまうという現実から目を背けるわけにはいかない。定年が60歳から65歳に引き上げられたものの、企業に勤めて定年を迎え、その後は年金で暮らすという戦後社会の人生のモデルケースが崩れつつあることも間違いない。
定年のあるサラリーマンになるということじたいが、少し前までは安定した生き方であったけれど、それがとても不安定な生き方になり、それこそ手に職をつけて、死ぬまで働けるような生き方を探る若者が、少しずつ増えていくのだろうと思う。
この写真は、風の旅人 復刊第2号の斉藤亮一さんの写真。好きな写真です。大人と子供は、このくらいの距離感が、なんだか好感が持てる。
復刊2号、オンラインで販売を始めました。
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テーマは、コドモノクニ〜来し方、行く末〜
現在の社会では、子供に対して、大人の価値観をすりこんでいくことが教育だと考える傾向があります。もちろん、大人は子供の将来が幸福なものになることを願って、様々なことを子供に伝えようとしています。でもそれは、この短い期間に、現代人が作りあげた世界の基準に従っているだけです。
人類は、歴史を通して、先祖代々が少しずつ築いてきた世界を、できるだけ損なわないように子供に伝える使命を持っていました。先祖代々が修正しながら積み重ねてきた知恵に、自分の経験が簡単に太刀打ちできないことを自覚していたからです。
しかし、今はどうでしょう。現代社会に生きる私たちは、いつの間にか、現代は人類の歴史の最高峰に位置していると錯覚しています。新しいものほど良くなっているのだと。
現代社会で性急に作り上げられた価値観は、非情に脆弱です。10年も経たないうちに廃れてしまい、また新たなものに取って代わられますが、その繰り返しを延々と続けるばかりです。にもかかわらず、大人は、今、自分が信じ込んでいるものを、子供達に押し付けようとしている。
現代人は、今この瞬間だけに意識をとらわれすぎています。もっと長い目で世界を眺め渡し、時代を超えて変わらないものを見いだし、それを子供達に伝えていく必要があるでしょう。もしかしたら、その必要すらなく、子供達は子供達で、世界の普遍性に基づいて生きているのに、大人が邪魔をしているだけかもしれません。
復刊第1号のテーマは修羅、そして、復刊第3号に予定しているのは、妣の国〜来し方、行く末〜です。つまり、第2号と第3号は、「コドモ」と「妣」(なきはは)で、対になっています。
復刊第一号のテーマ、「修羅」からずっと、震災後の日本の在り方を考えるのが、根底を流れるテーマです。一筋縄ではいかないし、単純な言葉で語りきれるものでもない。しかし、ベクトルとして、明確にしておきたいことはあります。あらゆることの判断の基準をどこに置くべきなのか。幸福ってなんなのか。生きるというのはどういうことなのか。価値観の多様性という言い方が流行っていますが、多用なのは形であり、生命の本質は、普遍です。どんな生き物もいつか必ず死ぬし、引き際がとても大事。そして、生命は個体で完結するのではなく、必ずリレーしていくものであり、過酷な条件の中でも生き延びていく知恵は必ず生み出される。
たった数十年で即席に作り出されたものに焦点をあてる媒体は無数にあるだろうけれど、風の旅人は、そんなものはどうでもよく、本質的で根元的なものの形を浮かび上がらせることにエネルギーを注ぎたい。
今のように、情報が氾濫している時代において、人が発信している情報に追随するようなことは、他の誰かに任せておけばいいと思う。
風の旅人の創刊号が世に出たのは、2003年4月1日ですから、ちょうど10年の歳月が経ちました。
次の10年間も、創刊時とスタンスは、そんなに変わらないと思います。
3月15日(金)荻窪の六次元で、第3回 風の旅人ナイトを開催します。
ゲストは、写真家の水越武さんです。
水越さんの自然写真は、際立っています。日本に自然写真家は大勢いますが、国内では人気が出ても国際的に名の通った人はさほどいませんが、
水越さんは、間違いなくその一人です。風の旅人でも何度も紹介してきました。
水越さんの眼差しで切り取られた自然の厳しさと美しさが、胸の奥深くを貫きます。
水越さんは、存在それじたいが仙人のようであり、決して饒舌ではありませんが、その一言一言に重みと深みがあります。
六次元のような密度の濃い空間だとよりいっそうその存在感とオーラを感じていただけることでしょう。
ふるってご参加ください。
お申し込みは、こちらまで→http://www.6jigen.com/
風の旅人 編集長 佐伯剛













